新しい木造の可能性−集成材建築の今後

建築家・京都造形芸術大学教授 渡辺 豊和

 今から800年近い昔のことである。源平の戦乱で焼失してしまった東大寺の復興を祈願し、その建設資金を調達し勧進する一人の僧があった。名を重源という。僧とは言え重源は宋(当時の中国統一王朝)に数回も渡り、彼の地の新しい建築の方式を研究して来た建築家でもあった。当然彼は設計術も施工術ともに身につけていたことは言うまでもない。しかし大工棟梁ではなかった。従って自ら金槌や鋸を使うという職人ではなかったのである。

 この重源が心血を注いで完成したのが大佛殿、南大門であり、現在も南大門は当時の建造物であるが、大佛殿は後の世の戦乱で再び焼打ちされ、ようやく再建がなったのは江戸時代になってからである。しかし大佛殿の建築様式は重源がもたらした鎌倉時代初期のものを忠実に踏襲しているから、現在私達が見る大佛殿は重源設計のものとそれ程の相異はない。間口が3分の2程に狭められている他は高さも木組も同じと見てさしつかえない。南大門も大佛殿も雄大な木組であり太い丸柱に貫が縦横方向に何段も架け渡されている。その木組はそれまでの建築には見られず、ひょっとしたら重源が学んだ当時の宋にも見られなかった方式だったかもしれない。もしそうだとするとあの雄大な木組は重源の独創だったことになる。ともかく重源の設計した大佛殿、南大門は奈良・平安時代には見られなかった極めて革新的な建築だったし、その雄大で力強い荒々しいとも言える建築空間はそれまでの我が国の建築にみられない特徴であった。
 こうして日本の建築は本場中国をしのぐ程の豪快無比な空間を有するようになる。鎌倉時代はそれまでの平安貴族文化を否定し、武士を指導層となし下層民のエネルギーが結集爆発した革命文化の時代であり、大佛殿・南大門はその民衆のエネルギーの象徴だったのである。これ以降日本の建築には新しい様式として安土桃山から江戸時代初期にかけて数寄屋が現われるが、どちらかと言えば富裕商人の趣味的様式であり、重源の大佛様(大佛殿、南大門の新様式を言う)のような前進的なエネルギーをはらむものではなかった。
 従って重源以来800年木造建築は伝統様式と化し、構法として新しい技術の発明も目立つ程のものは現われなかった。それでも第二次世界大戦以前までは木造は建築の主座にあったが、戦後大型木造が法規制され木造はその主座を鉄筋コンクリート造や鉄骨造に明け渡してしまった。しかしそれでも木造の新工法なり新素材開発の努力が跡絶えたわけではない。やはり注目すべきは集成材による木構造の新なる可能性への挑戦であったと言っていい。しかし私自身これに親しむことが出来なかった。理由は木片貼り合せ材がどうしても自然らしくないということに尽きた。わざわざむく材を切り刻み小片となしてそれを接着剤で貼り合せる余計なことをせずとも、むく材そのままを使用すればいいのではないかと、建築の専門家なら誰でも経験する抵抗感がある。
 しかしどうしてもなじめないと思っていた集成材を見直す機会がやってきた。1984年頃のことである。和歌山県中部の山地龍神村民体育館の設計を開始して間もなくである。林業の村なのに公共建築は全て鉄筋コンクリートか鉄骨造であったことから、これからの村立の建築は積極的に木造とすべきではないかと村長等に意見していたら、それではと依頼された仕事であり、村当局も私もそれ以降悪戦苦闘することになる。最大の難関は28メートルも架け渡す梁をむく材で手に入れることが殆ど不可能なことに気付いた時であった。昔のような何年もかけて自然乾燥した太材が用意出来ないのである。もし今から用材を切り出して乾燥するとしたらこの建物が何時完成するかわからないという心配と、もう一つ法的に主要構造材としてむく材を使用出来る規模を超えていたということである。そこでようやく私の眼は集成材に向かうことになる。
 とは言え物事は次善の策を採用するようでは決っして成功しないことぐらい今までの経験から熟知していたから、ここは積極的に集成材による架構に取り組むべしと決意を固めることとなった。その時に思い浮かべたのが僧重源の独創精神であった。私は現代の大佛殿、南大門を創出しようと考えたのである。大断面集成材は湾曲材が主であり、これでは体育館の外形も内部も極めて単純となり、事実それまでの集成材大空間建築は定型化していた。実は私の最大の抵抗はこの定型化の単調さにあった。新しい集成材大空間の創出には湾曲材を避け直線材を立体トラスとして架構するにしくなしとまず考えた。さらにむく材のみによる木造ならば純木造の木組の美を現出してみせるのも手ではあるが集成材は工場製品、これを活すのは鉄筋コンクリートと混成させるいわゆる混構造こそ新なる木造空間の創出に到るのではないかとも同時に考えたのである。結果としてコンクリート構造を木構造で包む常識とは逆の混構造方式を編み出した。ボルト、ナットによる斜材が四方八達する蛸の足型立体トラスの部材断面は大きくて22センチ角程度の中型となり、それがコンクリートの円柱から円柱へと架け渡されるからアリーナ内部は丁度森に樹木が群生する様に似ていた。当然あらかじめ意図したデザインである。集成材は純粋木材ではないと同様混構造も純粋木造ではない。但し集成材の利点は均一な材料が得られることであり、また高度の大工工技術も必要としない。名人達人でなくても金物による緊結であるから一定の施工精度を得ることが出来る。鉄筋コンクリートは純粋木造に比べるなら比較的ルーズな施工技術で充分であり、この2つの材料を混成架構することは施工の容易さ、一定精度からしても充分に論理的であろう。ともあれ集成材立体トラスによる鉄筋コンクリートとの混構造体育館は紆余曲折はあったが最初の構想通りに完成した。87年の初夏であった。ほぼ3年の歳月が流れていた。その間に費やした盟友の構造家川崎福則氏の労苦は大変なものであった。
 この仕事以後これも深い森の中にある琵琶湖の北、滋賀県余呉町での森林研修センターでは、むくの直線材に加え小断面湾曲材(勿論集成材)を多用して、「龍神」とは違った形の森のイメージを創り出した。「龍神」が直線的男性的な針葉樹的森のイメージを伝えているならば、「余呉」は曲線的女性的な闊葉樹的森なのである。東北の小京都と言われる秋田県角館町の田園地区の西長野小学校は、体育館には直線材による立体トラス、教室には湾曲材を多用して二種の集成材によるコンクリートとの混構造として完成した。
 なにも私の体験だけが集成材による新しい木造建築の創出だったわけではない。種々様々の場所で色々な試行が行われている。出雲ドームなどその典型例に違いない。しかし私は定型化していた大断面湾曲材を使用することなく全く新なる木造の可能性を追求したかったし、またそれを実行して来たことだけは断言していいのではないか。私は建築家であるから当然表現者、常に脳裡を離れないのは新なる建築空間の創出に対する止み難い欲求であることは言うまでもない。従って集成材による木造の可能性を追求するのも、全て空間創造に関わる行為であってそれ以外ではあり得ない。私の仕事自体鉄筋コンクリート造と木造とはほぼ半々であって、木造と言っても何らかの意味で鉄筋コンクリートとの混構造である。
 「龍神」は木が5、コンクリートが5ならば「余呉」は木が8、コンクリートが2。「角館」は木が4、コンクリートが6、奈良県黒滝村の黒滝ホールは木が7、コンクリート3と言ったように混成度合を変え、従って当然デザイン方式も変えてきている。逆に言えばそのつど新しい方式を発見して来ているし、また発見したいとも願って来た。
 とは言っても木造建築を成立させる社会的文化的意味を配慮せずに、ただやみくもに仕事するでは愚者と言うべきであろう。何故日本は木造建築の国だったのだろうか、その問いが重要ではないか。それは材木商であろうと施工業者やメーカーであろうと建築家であろうと木造に関わる人々
 なら誰にとっても言えることに違いない。日本に石材がなかったとよく言われるが日本は山の国、建築石材がなかったなど有り得ない。城郭の石垣など立派な石造建造物ではないか。それなのに石造は発達せず、木造を今日見るような高度な技術・デザインまで高め得たのは何故なのか。
 日本はかつて国土の殆が森であり、現在でも森の多い国である。稲作農耕により平野の樹海を伐り開いたが、深山の森を私達日本人は神の依り立つ場として来た。伊勢神宮や出雲大社も森の中に座す。森は神聖な場所であったと同時に山菜等を取る生活の場所でもあった。田園だけが生産生活の場所だったわけではない。私達日本人は先祖代々1万年以上前から森に親しみ森を畏れ森に浸って生きて来たのである、私達の身体は森と同化するように出来上がっている。砂漠の民や草原(ステップ)氷原(ツンドラ)のような森のない民とは違った身体感覚を身につけてきているのである。ここは温帯しかもモンスーン地帯、樹木は勢いよく生育する。むしろこれを除いて田畑を作らなければならず、時によって樹木は生活に邪魔ですらあった。しかしその樹木には神が宿るとも思い、大樹を信仰するのも私達日本人であった。この森、樹木に対する深い思いが木の文化、木の文明を育んで来たのである。石材がなかったのではない。必要としなかったのである。木造建築は当然神聖なる森の木を切って造られる。従って家には木霊が宿るのである。この木霊に守られて人々は安らいだ。深い森が神々に守られる癒しの空間であるのと同様、木造家屋も癒しの庭であった。大黒柱はその象徴。ともあれ私達日本人が木に対して他の民族には見られない愛着を抱くのは、深い森を生活の場として来たからに他ならない。現代と言えども私達の心の奥深くに森のイメージがひそんでいる。これが木造建築を希求する根源ではないか。従って森を神聖化することを怠って木造建築のみを欲求していてはいけないのではないか。